English Bayの浜辺にて【雑記#05】

今回はカナダ滞在時に書いていた日記の一部を紹介します。


短パンを履いてきて良かった。

思えば寒い場所にしばらくいたので、暖かな日の夜風がこんなに気持ちいいことを忘れていた。

祝日のEnglish Bayは家族連れやカップルで賑わっていて、露天で買ったホットドッグを食べたり、ビーチ沿いのレストランでビールを飲んだり、フリスビーを投げたり、手品を見ていたり、各々の時間を楽しんでいる。

俺は丸太の上に座ってジンジャエールを飲みながら、Enyaなんか聞いて、提案された通りにただぼーっとしている。ついさきほど、夕日が沈んだばかり。

現在21時11分。まだ明るい。

そもそも職場の休憩室で、名前も知らないあのカナディアンの娘と話さなければ、ここへは来ずに帰路についたことだろう。


「もう仕事は終わり?まだ遅くないから、めいっぱいヴィクトリアデーを楽しんでね」

でも、これから図書館かカフェに入って勉強して、それから帰るだけだよ

「何故ビーチへ行かないの?」

ビーチ?イベントか何かやってるの?

「何もしなくていいじゃない、ただ、ぼーっとして陽が沈むを眺めるの」

そうだね、そういうのもいいね

「そうだ、わたしの代わりに行って来てよ、それで明日、写真を見せてよ」

うん、いいよ、気が向いたらね


ダウンタウンのビル街から20分、ビーチへはすぐに着いた。

先週までの肌寒く雨の多い気候が嘘のように、雲もほとんどなく、海が夕暮れを眩しく映していた。

隣に座っては、話し、去っていく、様々な人。
英語、日本語、韓国語、スペイン語、聞いたことのない言語。

自分とは遠く離れた、考えの及ばない文化や国や言葉やアイデンティティのフィルターを通し、自分自身が何なのかを認識するために、俺は外へ出たのかも知れない。

常識や善悪やモラルの話ではなく、自分の奥底にある核のようなものが反応する、その温度感に従ってこれまで生きてきて、まだ道の半ば。

重要なことは、

自分自身で判断、選択し、そのことに関して微塵の後悔も余念もなく、また身勝手なことをしても受け入れてくれる家族、仲間がいるということ。

生まれ育った自国に繋ぎ止めてくれる大切なものがあること、それに気付けたこと。

”自分自身と向き合う”という、至極億劫で気が滅入るが、反面それまでの自分を越えるには絶対に必要なプロセスを放棄し諦めた大人たちを見てきて、俺はこういう風にだけはなりたくないと常に思って生きてきた。

自分自信の生き方に胸を張れるまでに27年間かかった。

少なくとも俺はこれまでを存分に苦しんで、楽しみ、またこれからもそうであるはずだという確信がある。

そう思えたのは何故だろう、と考えるとき、根本にあるただ唯一の”やるか、やらないか”の選択だけが常に目の前にあることに気付く。

そういえば、明日見せるつもりで写真撮ったのはいいけど、俺明日シフト入ってないんだった。

2017/5/23 English Bayにて