「人生で最も忘れられない瞬間は?」
そう聞かれて、人は何を答えるだろう。
僕はこんなことを家族にも、大事な友人にも聞いたことがないし、答えを予想してみたこともない。
僕自身誰かに聞かれたことすらないが、もし聞かれたらその問いには即答することができる。
2017年9月、ノースバンクーバーのディープコーブで、公園のベンチに座り、何を考えることもなく暖かな西日に包まれて、出たばかりのAmerican Footballというアメリカのバンドの新譜を聞いていた瞬間だ。
「この光景は生涯忘れることがないだろう」
そういう瞬間は幸い、僕の人生でもいくつかあるが、あの時に感じた多幸感に勝るものは、僕は未だに出会ったことがない。
目次
自分が好きなことを
忘れられないことといえば、普通は、普段しない経験をしたり、何かを達成した時だったり、家庭を持っている人ならば結婚した時や、子供が生まれた時などの瞬間だろう。
僕があの時感じた幸福感と言うのは、いってみれば「欠けているものは何もない」といったもので、充足感と呼んでもいいかもしれない。
なぜその時に多幸感を覚えたのか。
その感情を深掘りしていくことで、自分の好きなこと・やりたいことがよりクリアになったことをいまだに感じる。
新しい場所、新しい人
「移動にこそ、価値があるのだと思う。人と出会うことが人生の目的なのかもしれない。」
これは僕が敬愛して止まない小説家、村上 龍の言葉だ。
これまで新しい国で新しいことを続けてきたことを考えると、僕にとっての幸福というのはまさにこの言葉に集約される。
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ひとたび海外に出れば、自分は外国人だ。
当然家族はいないし、友達もほとんどの場合ゼロからスタートすることが多い。
僕の場合、バックパックなどの旅行ではなく、現地で働いたりして生活することが多いので、その国に住む人とコミニケーションを取ったり情報を集めることことは、文字通り死活問題となる。
情報の質が、そのまま生活のレベルに反映されるといっても過言ではない。
そんな面倒な事をなぜ僕が好んでやっているかといえば、好きだからだ。
新しい場所へ行き、見たことのないものを見て、やったことのないことを経験し、話したことのない言葉を学び、知らなかった人と友人になる。
ここ数年そういうことを繰り返してきたが、金銭的に恵まれている瞬間などほとんどなかった。
また大部分の時間において、心を許して何でも話せる友人は近くにいなかった。
母国を自ら離れているんだから、これは当たり前のことだが、経済的な余裕がなく、心が休まる場所がないという現実と、何か大きな壁にぶつかるタイミングが同時に訪れる度に、心が折れそうになる。
無いものではなく、持っているものを考える
そういう時に、あのノースバンクーバーの公園のベンチで座って感じた感情を思い出したりする。
いつも回帰するのは「不足しているものは何もないはずだ」という考えだ。
僕は比較的健康で、世界的に信用のある国に生まれ、人並みの教育を受けて育ち、自由気ままに生きても大きな障害が発生しない環境に生きている。
これは本当は、とてつもなく大きな幸福だ。
でも、事実は常に”当たり前”とすぐ傍にあり、改めて強く認識するほどの出来事が起きない限りは、隠れて見えなくなってしまう。
僕は愚かだから、そういうことを度々忘れ、自分が持っていない物を求めて奔走する。
だからきっと常に見知らぬ地を求め、世界との境界線がくっきりと認識できる生活が好きなのだ。
最後の地
「今まで行った国の中で、もし住むならどこ?」
友人にたまにこういったことを聞かれるが、僕はバンクーバー以外に、浮かばない。
訪れた国には、それぞれどこもいいところがある。
おいしい食事や素晴らしい景色、安定した気候。
どんなに酒を飲んで飯を食っても1000円で済む国もあれば、バスに乗るだけで700円かかる国もある。
全てが揃っていて完璧なバランスな国家なんておそらく存在しないし、あるとしても、僕はまだ訪れたことがない。
なぜこんなにカナダに恋い焦がれるのか、正直に言って自分でもわからない。
ただひとつ言える事は、バンクーバーで過ごした9ヶ月と言う月日は、僕の30年の人生の中で、最も完璧なバランスと充足感で成り立っていた、ということだ。
今バンクーバーに引っ越してまた生活を始めたとしても、当時と同じ状況にはならないし、同じように同じことを感じるのか、僕にはわからない。
でもそれは重要なことではない。
一番大切な事は、僕はまだ骨を埋める場所を決めていない、ということだ。
現段階において最高の場所を見つけただけで、僕はまだほとんど何も知らない。
だから、それを見つけるために、知らない場所へ行くことを止めないし、それが生きる上での最大の原動力になっている。
幸い、まだ体力はあるし、飽きてもいない。
これからもない頭を絞って、目的地を決め、できることから愚直に始めて、回り道になると分かっていても、とりあえず始めるのだろう。
人生をここで終えてもいいと、そう思える場所を見つけるために。